活動報告

 

2017年11月12日(日)「東京裁判71周年記念イベント第二弾」ー記念講演ー主催:当会・新宿平和委員会・新宿区婦人問題を考える会

第一部は前回と同じくJR市ヶ谷駅に集合し、長谷川順一氏(東京の戦争遺跡を歩く会)が同じコースを説明をしました。

第二部は、司会は太田正一氏(新宿平和委員会・富士国際旅行社代表取締役)、新宿区婦人問題を考える会石川久枝氏の開会あいつで始まり、川口重雄氏(丸山眞男手帖の会)と春日恒男氏(文化資源学会)が「今も遺る極東国際軍事裁判所法廷ー「防衛省市ヶ谷記念館」ー」を映像で報告。立命館大学名誉教授赤澤史朗氏が「東京裁判と戦後日本 ー東京裁判史観の亡霊ー」と題して講演があり、質疑応答の後、各団体からの訴え、長谷川順一氏が当会の活動を提案しました。近藤明氏(新宿平和委員会々長)から閉会のあいさつで終了しました。会場カンパは5,600円でした。参加者の皆さんにご協力を感謝申し上げます。

2017年4月30日(日)「東京裁判と防衛省市ヶ谷記念館の展示を考える集い」主催:当会・新宿平和委員会・新宿区婦人問題を考える会

第一部は、JR市ヶ谷駅改札口に集合し、長谷川順一氏(元新宿区議会議員)が「新宿区平和マップ」に掲載されているの市谷亀ヶ岡八幡宮境内の「八紘一宇石碑」「陸軍省所轄地・陸軍省用地」境界石を案内しました。3月末に新宿区が登録有形文化財指定をした、境内手水鉢の「几号水準」も併せて説明をしました。境内駐車場から「陸上自衛隊市ヶ谷基地弾薬庫」を、左内坂区道フェンス越しに「ペトリオッットミサイルPAC-3の常設地下弾薬庫」を説明しました。その後、防衛省正門から防衛省A棟(屋上ヘリポートがある地上19F、中央指揮所と日米共同調整所がある地下4F)や高さ220㍍の通信塔などを説明しました。公開が強く要望されている「大本営地下壕」のコンクリート壁を見ながら、第二部の会場「新宿区立ウイズ新宿会議室」に到着しました。

第二部は、司会は太田正一氏(新宿平和委員会・富士国際旅行社代表取締役)、長谷川氏の開会あいつで始まり、川口重雄氏(丸山眞男手帖の会)が「市ヶ谷台は戦争遂行の中枢・大本営陸軍部」を報告、春日恒男氏が「東京裁判と市ヶ谷記念館の展示改善問題」を報告、赤澤史朗氏から「東京裁判の歴史的意義」について補足発言がありました。質疑討論の後、近藤明氏(新宿平和委員会々長)から閉会のあいさつで終了しました。

レジュメや資料が不足するほどの参加者で会場は満席となり、会場カンパは15,801円と郵券1,298円でした。参加者の皆さんにご協力を感謝申し上げます。

 

第20回戦争遺跡保存全国シンポジウム長野県松代大会分科会で春日恒男氏が市ヶ谷記念館について発言したレポート要旨

第20回 戦争遺跡保存全国シンポジウム 長野県松代大会
第3分科会レポート

題目:市ヶ谷記念館を「東京裁判記念館」へ

発表者:春日恒男(文化資源学会)

はじめに
 2016年1月、川口重雄(丸山眞男手帖の会代表)、春日恒男(文化資源学会会員)、長谷川順一(元新宿区議会議員)の三名は、東京裁判開廷70周年を期して、防衛省に対し市ケ谷記念館の展示改善を要求することを決意し、同年3月末日、「ご賛同のお願い」(第5章参照)に資料三点※を付して有識者33名に配布した。その結果、現在6名の代表賛同人を得ている。次の段階として、これらの代表賛同人を中心に国会への請願書提出を目指し、今秋以降召集予定の臨時国会でのロビー活動を計画中である。
以下、なぜ市ヶ谷記念館を「東京裁判記念館」にすることが緊急の課題なのか、その理由を述べてみたい。そして、その趣意はそのまま<平和博物館と次世代への継承>という本分科会のテーマに沿うものと信じる。
 ※①「ナチスを裁いた法廷、記念館に ドイツ」(『朝日新聞』2010年11月22日付記事)、②「図表3 市ヶ谷台1号館保存運動略年表」(春日恒男「市ケ谷記念館の成立」『文化資源学』第8号、2010年、47頁)、③第128回国会 参議院内閣委員会議事録 第4号 1~33頁)。

1.市ケ谷記念館
 「市ヶ谷記念館」とは、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館の一部を同駐屯地西端(現在の防衛省庁舎B棟西側)に移設復原した建物である(1998(平成10)年10月に完成)。この建物は大講堂等の4つの施設を選別し、再構成したもので、「1号館」の約十六分の一に当たる。ちなみに「1号館」は次のような歴史を持つ。1937(昭和12)年6月、陸軍士官学校本部として建設され、1941年から敗戦まで大本営陸軍部等として使用。敗戦後の1946年に極東国際軍事裁判所法廷(以下、東京裁判法廷)が開設された後、1960~94年まで陸上自衛隊東部方面総監部、各自衛隊幹部学校等として使用された。すなわち、同記念館は戦前、戦中、そして戦後を含め第一級の<戦争遺跡>なのである。

2.成立の経緯
同記念館の成立には「市ヶ谷台1号館保存運動」が深く関与している。1987年、防衛庁は同庁庁舎(当時、六本木に所在)の市ヶ谷移転を機に「1号館」取り壊しを決定した。しかし、1991年、TV報道を契機に「市ヶ谷台1号館の保存を求める会」が保存運動を起こし、1992年、板垣正(自民党)、翫(いとう)正敏(社会党)などの国会議員の協力により超党派の運動へと発展する。1993年11月、参院内閣委の審議の結果、時の防衛庁長官が再検討を決断し、防衛庁は取り壊しから「一部保存」に一転した。しかし、翌1994年1月、参院本会議が全会一致で「保存に関する請願書」採択したにもかかわらず、防衛庁は「全面保存」を拒否する。その後も保存運動側は裁判やデモ等の行動に訴えるが、ついに「全面保存」は実現せず、現在の「市ヶ谷記念館」が誕生した。

3.「昭和史記念館(仮称)」案
保存運動側は、「一部保存」決定後も「1号館」を「昭和史記念館(仮称)」という<歴史博物館>として活用する案を提起していた。さらに保存運動内部では、その展示内容として、先の大戦に対する肯定・否定の両論を併記し、その評価は来館者各自の判断に委ねるという案も議論されていた。もちろん、この案には歴史認識で対立する左右両派が大同団結するための妥協という側面あったことは否めないが、しかし、これを機に両者が互いの歴史認識を冷静に議論したという事実は注目してよい。残念ながらこの案は採用されなかったが、もし、この<歴史博物館>が実現していたら、日本人自らが自国の過去と正面から向き合う契機となっていたであろう。

4.「東京裁判記念館」設立の理由-世界史の中の東京裁判
 東京裁判に対する賛否は同裁判開廷時より様々な観点から行われてきた。そして、それは今日まで継続しており、その意見は各々一面において妥当であることは事実である。この論争は将来も継続するであろうし、継続しなければならない。しかし、肯定派であれ否定派であれ、以下のような同裁判の世界史的な意義は、おそらく何人も否定できないと思われる。
第一に、同裁判がニュルンベルク裁判とともに世界史上最大の戦争である第二次世界大戦の終結点であったこと。第二に、サンフランシスコ条約第11条において同裁判の判決受諾が日本の法的義務と規定されたこと。周知のように、サンフランシスコ条約は今日まで続く国際秩序の根本である。同裁判は現在の国際秩序の礎と言っても過言ではないのである。第三に、同裁判がニュルンベルク裁判とともに戦争犯罪人を裁くという国際法の発展の端緒となったことである。この三点だけで「東京裁判記念館」の設立理由は十二分である。これ以上の理由が必要であろうか。それでもあえて付言するならば、とりわけ第三の点を強調しておきたい。同裁判とニュルンベルク裁判以前に、戦争を行った国家と指導者を裁く裁判は世界史上存在しなかったのである。この歴史的意義は大きい。もちろん、「事後法」、「中立性」等の様々な問題点は残った。しかし、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を確定し、個人の戦争責任を世界史上初めて問うたという歴史的事実だけは忘却すべきではない。現代においても旧ユーゴ国際法廷でも継承され、これこそ人類の未来へつながる重要な課題なのである。
 戦後70年を過ぎ、戦後体制は大きな曲がり角に来ている。世界の各地で排外主義とナショナリズムが台頭している。大戦の反省から生まれた戦後の国際協調の精神は忘却され、大戦の原因となった戦前の偏狭な自国中心主義に回帰しつつある。2016年の今こそ、戦争の終わりと平和の始まりの狭間に屹立する「東京裁判記念館」が必要とされる時はない。

5.現状と提案
現在、市ヶ谷記念館は、防衛省により一般公開されている。しかし、その展示に保存の経緯や保存運動への言及もなく、もちろん保存運動が提起した活用案はまったく反映されていない。極言すれば、防衛省当局は「東京裁判」の舞台という同記念館がもつ歴史的重要性を意図的に抹殺していると思わざるを得ない現状である。ちなみに、2008年、元保存運動関係者有志は、同記念館を「極東国際軍事裁判記念館」と改称し、東京裁判関係資料を中心に展示せよという要望を当時の防衛大臣あてに提出したが、今日に至るまで防衛省側の反応はないようである。
以下の文は「はじめに」で言及した有識者宛の「賛同のお願い」全文である。改善要求の6項目はそのまま国会請願書に記載する予定である。ご一読いただき、ご賛同いただければ幸いである。

ご賛同のお願い


「市ヶ谷記念館」とは、防衛省庁舎B棟西側にある施設です。本記念館を構成している旧1号館大講堂は、極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)法廷の遺構であり、1998年、防衛省(当時は防衛庁)が港区桧町から新宿区市谷本村町の現住地に移転する際、保存運動がおこり移設復原したものです。

現在、防衛省は本記念館を中心に見学ツアーを実施していますが、現行の展示は東京裁判の歴史的重要性を伝える内容とは言えません。保存運動の目的及び、その運動の結果、参院本会議で採択された「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願」(1994年)の趣旨が東京裁判の歴史的重要性にあったことは明白であり、これを踏まえると本記念館の現状は誠に遺憾な事態です。2010年11月21日、ドイツ連邦共和国は「ニュルンベルク国際軍事裁判」法廷上階に「ニュルンベルク裁判記念館 Memoriam Nuremberg Trials」を建設しました。同館では実際に使用された被告席や当時の映像資料のみならず東京裁判の展示もあり、その開館式典では独外相が「過去を知らずして、過去から未来のために学ぶことはできない」と述べ、世界史上で重要な役割を果たした裁判をその現場で後世に伝えていく意義を強調したと伝えられています。このようなドイツの姿勢を鑑みるとき、なお一層、私たちは本記念館の現状を座視することができません。

本記念館を構成している旧1号館大講堂は、戦前、陸軍士官学校、大本営陸軍部等に使用された第一級の「戦争遺跡」でもあります。「防衛庁の市ヶ谷移転」という偶然の結果、しかも、本来は消滅する運命であったにもかかわらず、奇跡的に残存することができたのです。昨年、「安保法」が国会で成立し、新たな戦争の可能性はますます高まってきました。今こそ、先の大戦の「終わり」を迎えた場所であり、その大戦の「裁き」を受けた場所、換言すれば、戦前と戦後の結節点を象徴する場所、まさにその場所が<防衛省という現役の軍事中枢>に存在するという重大な事実を国民全体で真剣に受け止め、本記念館の在り方を根本から見直すべき時ではないでしょうか。
2016年、東京裁判開廷70周年を迎え、私たちは、以下、列記したように「市ヶ谷記念館」の歴史的重要性に相応しい展示内容に変更することを目下の急務と考えます。私たちの趣意にご理解いただき、下記の展示改善案にご賛同賜りたくお願い申し上げます。

尚、ご賛同頂きましたら、代表賛同人となって頂き、以後広く個人・団体から賛同者・賛同団体と賛同金を募っていきたいと考えております。講演会や学習会を開催しながら、一定の時期に準備会から正式な会に致すつもりです。その後は、防衛大臣宛の陳情書と超党派の紹介議員で国会請願書として提出する予定です。また、参考資料として参議院内閣委員会の議事録も同封致しました。ご賢察の上、何卒ご協力賜りますよう重ねてお願い申し上げます。




1)極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)の裁判官、検察官、弁護人、被告人の肖像写真とそのプロフィールを館内に展示すること。

2)極東国際軍事裁判所憲章などを含め、裁判の経過を図示し、その中で検察官の主張、弁護人の主張、被告人の主張、裁判官の判決を館内に展示すること。

3)東京裁判に関する内外の公刊資料を収集し、館内に展示すること。

4)東京裁判に関する映像資料(記録映像)を館内で上映すること。

5)「市ヶ谷記念館」設立の由来に「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願採択の国会決議」(平成6年1月)がなされたことを明記すること。

6)大講堂内に当時の法廷を復原すること。
以上

2016年3月31日

防衛省「市ケ谷記念館」を考える会(準備会)世話人
川口 重雄(丸山眞男手帖の会代表)
春日 恒男(文化資源学会会員)
長谷川順一(元新宿区議会議員)


春日恒男氏の論考 季刊戦争責任研究第75号(2012年春季号)

「極東国際軍事裁判記念館」設立について

(工事中)


侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館芦鵬氏が春日氏の論考を翻訳(中文)

有关建立“远东国际军事法庭纪念馆”的问题